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[観光情報 目的で探す [見る]]には66件の情報があります。
おさよん活動日記(佐用チャンネル撮影 馬螺が淵(うまらがぶち)編)
佐用町観光イメージキャラクターの「おさよん」です。
佐用チャンネルの撮影で千種川にある馬螺が淵(うまらがぶち)へ行ってきたよ。
おさよん活動日記(佐用チャンネル撮影 三方里山他)
佐用町観光イメージキャラクターの「おさよん」です。
佐用チャンネルの撮影で三日月地域にある三方里山、けんこうの里三日月、「平知盛」塚(たいらのとももり)に行ってきました。
おさよん活動日記(佐用チャンネル撮影 ゆうあいいしい編)
佐用町観光イメージキャラクターの「おさよん」です。
佐用チャンネルの撮影でゆう・あい・いしいに行ってきました。
おさよん活動日記(久崎市編)
佐用町観光イメージキャラクターの「おさよん」です。
久崎地域で開催された久崎市(くざきいち)へ行ってきました。
おさよん活動日記
佐用町観光イメージキャラクターの「おさよん」です。
佐用チャンネルの撮影で平福郷土館、三日月藩乃井野陣屋館、上月歴史資料館に行ったよ。
平福の町並み
平福は、慶長・元和年間(1596年から1623年)に現在の町並みが形成され、その後、因幡街道随一の宿場町となりました。街道に沿う町並みは、昔ながらの姿で、南北に1.2キロほど続きます。利神山とこれに対する西側の連峰の山峡の懐に抱かれて、今は静閑なたたずまいを見せています。連子窓、格子戸の平入りの家々、佐用川の石垣に並ぶ白壁の川屋敷、川座敷、土蔵群は平福ならではの景観です。
弦谷 かたくりの花
播磨科学公園都市のふもと、佐用町東部の弦谷(つるだに)地区の山の斜面に群生しているカタクリの花。
4月、桜の開花時期に花を咲かせます。うつむき加減に花を咲かすカタクリは、日中のみ花びらを開かせ、朝夕や雨の日には閉じてしまう可憐な植物です。
東徳久 かたくりの花
佐用町中部の東徳久地区で群生しているカタクリの花
毎年4月、桜の開花時期に花を咲かせます。うつむき加減に花を咲かすカタクリは、日中のみ花びらを開かせ、朝夕や雨の日には閉じてしまう可憐な植物です。
平知盛塚
源平の戦いに敗れた平家の残族が逃げ込んだという「平家の落人伝説」が、この地に残っています。
平知盛(清盛の子)の家臣らが逃げ込んだと言われており、この塚は彼をしのんで建てたと伝えられています。
日限地蔵尊
江戸時代、三日月藩士が江戸から持ち帰ったと伝えられるお地蔵さん。
数々の奇跡的な出来事から、「日を限ってお願いすると必ずかなう」と言われ、町内外から多くの人が訪れています。
また、毎年8月23日に行われる夏祭り(地蔵盆) には、多くの人が花火や各種イベントを楽しんでいます。
北条時頼座像
鎌倉時代の5代執権北条時頼が隠居後、全国行脚の途中にこの地を訪れた際、病に倒れ3か月間滞在しました。その間、村人から手厚い看護を受けた時頼は、そのお礼にと自ら彫った木像1体と、「深雪にも あさる雉子(きぎす)の声聞けば己が心はいつも春哉(はるかな)」という歌を残して立ち去ったという言い伝えがあります。
この像は、国指定重要文化財です。時頼の像は全国で2体のみ(もう1体は鎌倉の建長寺にある俗体像)といわれ、本町の像は桂材による寄せ木づくり、彩色、彫眼のもので鎌倉時代の秀作として早くから旧国宝、現在は国指定重要文化財になっています。
また、時頼の歌からこの村を「春哉」と呼ぶようになりました。
弓の木
後鳥羽上皇が隠岐の島に流される途中、弓を 掛けて休んだという伝説がある通称「弓の木」 と呼ばれるムクノキ。 「三日月の大ムク」と同じく県指定の 天然記念物です。
兵庫県指定天然記念物「三日月のムクノキの古木」
三日月の大ムク
推定樹齢800年、目通りの幹回り約9.9m、 樹高約19mの大木で、昭和46年に兵庫県 指定天然記念物になりました。 ムクノキとしては日本一とも称賛され、多くの 見学者が訪れ親しまれています。
船越山モンキーパーク
船越山500ヘクタール余の広範囲に住みついた数百匹の純日本猿の野猿を餌付けし、「野猿の名所」としてその名を知られるようになり、観光客を楽しませています。
思い思いにグルーミングに励む彼らのなかにも「社会」はあるようで、じっと見ていると様々な人間...いや猿模様を垣間見ることができます。
また、平成14年6月に全国にも珍しい『黄金のサル.ひかりちゃん』が誕生し、ひと目見ようと全国からたくさんの観光客が来園しています。
天一神社
この神社は今より約2千年前(弥生時代)に創立された日本でも最古の神社で、宝剣(銅剣)が御神體であることは、天智記に「安置御宅」と記され、延喜式神名帳をはじめ多くの古書に登記され有名です。尚、奈良東大寺戒壇神名帳に「天一天白中頭天王」と天一神社のことが記されています。正月には疾病を免れると近郷より多数の参拝者があります。
上三河の舞台
昭和50年、国の重要民俗資料として指定された農村舞台は茅葺き入母屋造りで、内部は宙づりと床の二段式回転舞台等いたるところに新しい試みがなされ、近世演劇史を語るうえで重要な資料となっています。
現在は、この舞台で、2年に1度の割合で歌舞伎が上演されています。
また、最近では小学生による子ども歌舞伎もはじまり、人気を集めています。
瑠璃寺
神亀5年(728年)、聖武天皇の勅願により、僧行基が開山し、本堂、金堂、薬師堂をはじめ、12の坊舎を建立したのが南光坊瑠璃寺であり、1200有余年の永きに亘り加持祈祷の修験道場としての伝統をもつ高野山真言宗派の名刹です。
冬には、大護摩と追儺式が行われ、20数名の山伏がホラの音を合図に問答と読経をはじめる様は壮観です。
また、重要文化財の鐘は権律師覚祐が願主となり、赤松一族が寄進した記名があり、応安二年の銘がある。覚祐は播磨守護であった赤松則村(円心)の末弟と伝えられています。
飛龍の滝
佐用郡随一の規模を持つ「飛龍の滝」。20mの高さから落ちる水の音としぶきは壮観です。
滝の中央部あたりの壁岩が突き出し、水の流れに変化がついています。これが飛龍の姿に似ていることから、この名前がつけられたと伝えられています。
杉坂史跡
元弘の変の失敗で隠岐に流される途上の後醍醐天皇を救出すべく、船坂峠(上郡町)で待ち伏せていた武士の中にいたのが児島高徳。しかし、天皇一行は船坂を通らず、杉坂峠を通りました。それを知り高徳が杉坂峠に駆け付けた時には、すでに天皇は院の庄(津山市)に入った後でした。
高徳無念の地がここ杉坂峠なのです。
平福本陣跡
鳥取藩の本陣跡に、陣屋門をイメージした木造本瓦葺きの建物を、平成8年に整備しました。白壁の門や回廊形式の塀を設け、庭園には休憩用のベンチも配置しています。