佐用の史跡文化財 皆田紙の歴史 佐用町の紙づくり
皆田紙の歴史 佐用町の紙づくり(皆田)

私たちの生活に欠かすことができない「紙」。パソコンに頼る現代社会でも、最も身近に記録できるものとして様々な分野で使われています。
紙は西暦105年ごろ、中国の蔡倫(さいりん)が樹皮や麻、布などを材料として作ったのが最初とされています。一説には、西暦610年に高句麗の僧であった曇徴(どんちょう)が、日本へ製法を伝えたとされています。
そして日本での紙づくりは、国の事務文書や仏教の教典への使用などを背景として発展。平安時代には、記録だけでなく、物語をはじめとした国風文化にもはぐくまれ、中世以降には芸術文化や宗教に至るまで数々の記録を紙に残すようになりました。そうして蓄積された情報は、後世の文化発展に大きく貢献しました。
さて、このような紙や紙づくりは、播磨国や佐用町にとって、どのようなかかわりがあるのでしょうか。
元来、播磨国では、古くから紙を作ってきたところとして知られており、既に奈良時代から紙に関する記録が残っています。そのなかでも紙の生産地として知られていたのは、現在の多可町あたりで作られていた「杉原(すぎはら)紙」です。奈良時代から紙づくりが行われていたと伝えられる播磨国有数の生産地です。
では、佐用町ではどのようなかかわりがあったのでしょうか。それは、奈良時代からもう少し後の時代に「かいた」紙として出てくることになります。
皆田(かいた)紙は、室町時代から明治時代まで皆田地区をはじめ、上月地域の各地で行われていた製紙業です。しかし、いつ、誰によってもたらされて流通するようになったのか、その由来まではわかっていません。
皆田紙の歴史は古く、文明七(1475)年、奈良県興福寺にあった大乗院(だいじょういん)の法会(維摩会(ゆいまえ))の記録に記述しているものが最古の記録として残っています。このころには皆田紙が奈良まで流通していることがわかり、その紙質は厚紙であったことがわかっています。
江戸時代初めごろには、赤穂・浅野家の領地であった皆田村から中山村で紙がすかれていました。江戸時代中ごろ以降には上月地域の各地ですかれ始め、1800年代には三日月・森家の領地であった大日山や上秋里、下秋里、西新宿でも盛んにすかれており、桜山や岡山県の五名などでも行われていたようです。また、鳥取県八頭郡佐治村の西尾半右衛門が、皆田村から紙すき技法を習得し、村に帰って紙すきを行ったという伝承の話も残っています。
なお、江戸時代の紙のカタログ『紙譜』には、「播磨海田」とありますが、他の生産地にも「岩国海田」などと記述があることから、このころには、皆田紙が厚地の紙種名として、広く認知されていたのではないかと考えられています。
しかし、江戸時代に最盛期を迎えていた製紙も、明治には洋紙が普及しはじめ、皆田地区では明治35年頃に製紙業が終わってしまったようです。
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