佐用の史跡文化財 福原城の戦い
福原城の戦い(佐用)

天正五(1577)年11月27日、現在の佐用町福原にある福原城(佐用城)は、竹中半兵衛と小寺官兵衛(後の黒田官兵衛)の軍勢によって攻められていました。
さかのぼること1カ月前、織田信長は羽柴秀吉らを播磨へ出陣させました。播磨に入った秀吉は、御着城の小寺官兵衛をはじめ、播磨の多くの勢力を味方に付けていきます。そして、但馬でいくつかの城を落とした後、いよいよ秀吉は、織田氏に従わない佐用郡の上月城へと兵を進めてきました。
このときの秀吉自身の手紙には「敵対する城が三つあり、そのうちの一つ福原城から城兵が出てきたので、竹中半兵衛と小寺官兵衛を送り、福原城下で戦いになった」とあります。しかし、戦いは1日で終わり、福原城の兵はことごとく討ち果たされ、福原城は落城してしまいます。
なお、福原城主は秀吉に討ち取られたと伝えられていますが、高尾山福円寺にて家臣と共に自刃したとも伝えられています。またその後の逸話として、落城の際に城主四男の藤松丸(上記絵図左下)は、家臣によって美作国角南村の郷士にかくまわれ、成人した後に佐用村へ帰郷したことなど、福原城にまつわる話が佐用町史には載せられています。上記の絵図は子孫が江戸時代に描かせた合戦前の福原家主従らの様子を表しており、同氏の数少ない貴重な資料として、平成5年に町指定文化財となりました。
ところで、現在も残る福原城跡には城主をまつる福原霊社、通称「こうべさん」が建っています。当時の史料では認められませんが、最後の福原城主であった則尚(のりなお)が頭脳明晰で優れた人であったと伝えられていることから、年末年始の初詣などには、今も多くのかたが参拝に訪れます。
(参考文献:佐用町史ほか)
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福原城の戦い
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