佐用の史跡文化財 上月城と上月合戦
上月城と上月合戦(中上月)

写真:上月城跡
上月城は今の中上月にある中世の城で、羽柴秀吉が「備作撫之堺目」と手紙の中で書いたように、備前・美作・播磨三ケ国の境にある交通の要衝に築かれた重要な城だったようです。ただ、いつ誰によって築かれたかなどはよく分かっておらず、赤松氏、上月氏などの名が伝わっていますが、はっきりしたことは分かっていません。
さて、上月城が歴史の表舞台に現れるのは戦国時代、織田氏が播磨国に進出してきたころになります。
天正五年(一五七七)、毛利氏と対立していた織田信長は羽柴秀吉に播磨への進出を命じます。秀吉は策により播磨の武将を味方に付けていきますが、毛利側について従わなかった上月城を攻めるため、11月に佐用郡へ攻め込んできます。
このとき、郡内で上月城側についていた城は三つであったと秀吉は述べており、一つは上月城、残りは福原城(佐用城)と利神城(とされている)だったようです。
佐用郡に入った秀吉は11月27日、竹中半兵衛・小寺官兵衛に福原城を攻め落とさせ、ついで翌28日から上月城を攻め始めます。
このとき秀吉は、城の周りに柵を三重にめぐらせて城兵の逃亡をふせぎ、さらに水を取ることもできなくしています。
こうした状況に城側は講和を持ちかけますが秀吉は応じず、ついに12月3日、城内へ攻め込み上月城を落城させました。
このとき秀吉は自身の手紙で、城兵の首はすべて切り、さらに女性は磔(はりつけ)、子どもは串刺しにして、見せしめのため国境に並べ置いたと書いています。
この後秀吉は上月城を尼子勝久に預け、自らは領地へと引き揚げていきました。
さて味方の城、上月城を落とされた毛利氏は奪い返す行動を起こします。吉川・小早川の軍が佐用郡へと進出し、上月城を取り囲んだのは天正六年(一五七八)4月18日のことでした。
この時の毛利氏は上月城を柵や杭、堀などで三重四重にも囲み、さらに陣城を周りに造るなど厳重な包囲網を敷いています。
尼子氏が籠もる上月城が毛利氏によって攻められていることを知った秀吉は荒木村重らと共に上月城救援に向かい、5月4日に今の山脇集落の南東山頂にある高倉山に陣を置きます。この時両軍の数は毛利軍3万、対する織田軍は1万であったと吉川元長の手紙には書かれています。
こうして織田と毛利は上月城を巡って睨み合いを続けますが、これより少し前に三木の別所長治が毛利側につき籠城を続けていたため、兵力を裂かれた織田氏には不利な状況でした。
このため秀吉は信長に今後の指示を仰いだところ、兵を引き三木城攻めを優先するよう命ぜられたため、6月26日に秀吉は高倉山から撤退しました。そして孤立無援となった上月城の尼子氏は7月5日ついに開城し、上月城は落城します。
開城にあたって山中幸盛(鹿介)が降伏を申し入れ、その結果、尼子勝久らは切腹、幸盛ら生捕りの者は備中松山に送るよう申し付けられます。その後幸盛が高梁川の合の渡しで切られたことはよく知られています。
上月城はこの合戦の後、歴史の表舞台にあらわれることはありませんでした。
いままでは上月城や周囲の山頂に残る城跡などが当時の面影を今に伝えています。
参考本:「上月合戦から織田と毛利の争奪戦から」
地図
上月城と上月会戦
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