佐用の史跡文化財 長尾廃寺跡
長尾廃寺跡(長尾)

写真:長尾廃寺塔心礎
日本が大陸にならつて、国家整備を本格化した奈良時代のはじめ、特に白鳳文化が花開く7世紀後半から8世紀のはじめにかけて、多くの地方寺院が建立されました。
当時の佐用郡の中心は佐用高校周辺にあったと考えられ、古代の郡役所跡の一部も発掘調査されています。
佐用高校の北側に玉垣で囲まれた大きな礎石がありますが、これは古代寺院の塔心礎で、一辺約1.7メートルの自然石の上面に直径1メートルの円形柱座が彫られ、中央には直径38センチと11センチの穴が2段に彫り込まれています。穴の最深部まで約12センあり、舎利が納められた穴と考えられます。
この塔心礎は、『佐用町史』によると、昭和初期に掘り出されて売却されようとしたところ、長尾地区の人々や当時の鎌井町長らによって保存決定がされたものです。寺は、寶光山鶏足寺とも伝えられますが、遺跡名として長尾廃寺跡と名付けられ、塔跡は昭和44年3月25日に県指定史跡となっています。
昭和63年度、平成元年度に周辺の発掘調査が行われ、塔心礎は、ほぼ原位置に保たれていることも判りました。塔の東側に金堂、北側に講堂が建つ、法隆寺式の伽藍配置をもつ寺院であったと推定されています。伽藍を囲む柱列や中門跡も確認され、中心伽藍の規模は東西65メートル、南北60メートルあったとみられます。
また、建物の礎石のうち3個が佐用高校の前庭に移されていますが、これも町指定考古資料となっています。当時の佐用郡には新宿、櫛田、早瀬などに寺院が建立されますが、長尾廃寺は郡を代表する寺院とみられ、この一帯が古代佐用の政治・文化の中枢域であったと考えられます。
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長尾廃寺跡
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