上月城と黒田官兵衛
戦国時代の織田と毛利の攻防の地として、また尼子家再興に燃えた尼子氏、山中鹿介の最後の地として知られています。
その起こりは、延元元年、赤松氏の流れを組む上月次郎景盛が大平山に砦を築き、後に二代目の盛忠がこの地に本拠地を移したことに始まったといわれています。
播磨・備前・作州の三国に接する要所を治める上月城主(城主名は赤松政範・[赤松]七条・上月十郎[景貞]など諸説ある)は毛利に与していたため、天正5年11月、秀吉率いる織田勢の矛先は佐用の地へと向かうことになりました。
福原城落城後、勢いに乗る織田勢は、次に上月城への攻撃を開始します。「黒田家譜」によると、この戦いでは官兵衛が先陣を務めますが、毛利方の宇喜多直家率いる援軍三千を得た上月側が攻勢、官兵衛の隊も後日、山中鹿介をはじめとする尼子勢の援軍を得て両軍の攻防が続きます。以後、三か月に及ぶ籠城戦を迎えますが、城中の謀反者により城主が斬殺されたとも伝えられています。
「信長公記」や秀吉自身の文書によると、城内の家臣が降伏を申し出ましたが、秀吉はこれを許さず、十二月三日の総攻撃によりついに上月城は落城します。すべての城兵は斬首、また城内にいた二百余人のうち女性は磔、子どもは串刺しにされ国境に晒されるという凄惨な結末を迎えました。
上月城主の妻は、黒田官兵衛の妻・光(幸圓)の姉であり、官兵衛と城主は義兄弟でありました。合戦では、先陣として落城の様子を間近に見た官兵衛の苦悩はいかがなものだったのでしょうか。
その後、上月城には山陰の名族・尼子勝久、山中鹿介らの尼子勢が入りますが、翌年四月、三万にも及ぶ毛利の大群に攻められ城は包囲されます。援軍に駆けつけた羽柴秀吉・荒木村重ら一万の織田勢は高倉山に陣を張り、対峙するも付け入ることもできず、時を同じくして反旗を翻した別所長治を討つため播州・三木城へと向かうこととなりました。織田勢の撤退により、見捨てられた上月城は天正六年七月に落城します。信長と秀吉、西国の覇者毛利氏とにはさまれ、歴史の波に翻弄された上月城は、尼子氏の最期と共に歴史の表舞台に再び現れることはありませんでした。
福原城落城後、勢いに乗る織田勢は、次に上月城への攻撃を開始します。「黒田家譜」によると、この戦いでは官兵衛が先陣を務めますが、毛利方の宇喜多直家率いる援軍三千を得た上月側が攻勢、官兵衛の隊も後日、山中鹿介をはじめとする尼子勢の援軍を得て両軍の攻防が続きます。以後、三か月に及ぶ籠城戦を迎えますが、城中の謀反者により城主が斬殺されたとも伝えられています。
「信長公記」や秀吉自身の文書によると、城内の家臣が降伏を申し出ましたが、秀吉はこれを許さず、十二月三日の総攻撃によりついに上月城は落城します。すべての城兵は斬首、また城内にいた二百余人のうち女性は磔、子どもは串刺しにされ国境に晒されるという凄惨な結末を迎えました。
上月城主の妻は、黒田官兵衛の妻・光(幸圓)の姉であり、官兵衛と城主は義兄弟でありました。合戦では、先陣として落城の様子を間近に見た官兵衛の苦悩はいかがなものだったのでしょうか。
その後、上月城には山陰の名族・尼子勝久、山中鹿介らの尼子勢が入りますが、翌年四月、三万にも及ぶ毛利の大群に攻められ城は包囲されます。援軍に駆けつけた羽柴秀吉・荒木村重ら一万の織田勢は高倉山に陣を張り、対峙するも付け入ることもできず、時を同じくして反旗を翻した別所長治を討つため播州・三木城へと向かうこととなりました。織田勢の撤退により、見捨てられた上月城は天正六年七月に落城します。信長と秀吉、西国の覇者毛利氏とにはさまれ、歴史の波に翻弄された上月城は、尼子氏の最期と共に歴史の表舞台に再び現れることはありませんでした。
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